6: junky musicology  Jimi Hendrix

jimihen 100
Jimi Hendrix: Part One

Hendrixの情報は彼の不審な死を含めてうんざりするほど溢れている。
その真偽を判断する術を誰も持ち合わせていない。彼自身、これほどまで自分が神格化されるとは思っていなかっただろう、むしろ困惑しているのでは、。

当初、アイドル路線から始まったBeatles、その成功に触発され、録音技術、機材の発達、drug等による彼等の音楽性の変化が、Led Zeppelin、Rolling Stones、Yes、Pink Floyd、the Who、Deep Purple等、英系白人ロックバンドの成功に繋がっていった。
それと並行して60年代半ばから始まったFMラジオ局の増加、多くのコンサート興行、人々がエレクトリック・ギターを持った悪ガキ共のrock and rollが金になると気付くのにそれほど時間を要しなかった。

Hendrixもそのパーツとしてビジネスに組み込まれ、現在につながる巨大、音楽ビジネスの発展に寄与した一人だ。
しかし、人種差別が公然と行なわれていた時代の、どこの馬の骨とも知れない、無一文の黒人の若者が、白人、及び世界のrock ファンを取り込むには巧みな戦略を必要とした。
でも、それは周知のごとく世に出た後の話で、66年までは無名で、ギター弦を歯で弾く同僚・黒人 musicianの真似、そしてRBバックバンドでの派手な振る舞い、NYヴィレッジでなんとか表舞台に出ようとあがきもがいていた黒人musicianの一人にすぎなかった。

そんな時期に一人の女性、ファッション雑誌・Vogueのモデル・Linda Keithが現れる。
たまたま66年、彼女はNYの“café a go go”で演奏していた、 “Jimmy James and the Blue Flames”を見た。Hendrixがリーダーの最初のバンドだ。
彼のギタープレイに彼女は驚き、なぜ誰も興味をもたないのか怒りさえ感じてしまう。
当時LindaはStonesのKeith Richardsの恋人で66年・Rolling Stones・USツアーに同行していた。その時、Keith に無断で白のfender stratcasterを、自分のを質に入れたHendrixに貸した。しかもそのギターを演奏中に粉々にたたき壊してしまう。

(余談だが、この出来事でKeithは頭にきてLindaと別れている。しかし、それがBrian Jonesとの共作の、あのメロディアスな曲“Goodbye Ruby Tuesday”の誕生につながる)

彼女はHendrixを世に出そうとStonesのマネージャー、後のマドンナのそれに彼のプレイを見せるが彼等は興味を示さなかった。Stonesの奴は当時Keithの恋人だった彼女が黒人のHendrixに熱中しているのを快く思っていなかったからだ。
その後、Animalsのbassist・Chas Chandlerに紹介、当時、彼と共にAnimalsのマネージャーだったMichael Jefferiesの同意を得て、Hendrixの1970年・9月に終わる短い4年間のロックシーンが産み落とされる。

ギタープレイが唯一無二の無知な黒人を白人層に取り込めば金になると踏んだMichael Jefferiesなる人物は複雑な男で、マフィア、英情報局、ロシアンコネクションなど胡散臭い噂がわんさとあったが、Hendrixは勿論そんなことはでうでもよかった。
ギターを弾いて金になれさえすればいい極楽トンボ状態だ。
曲者はFirst classの航空券と用意し、ワークビザ取得のため、NYで有名なスターである、との偽証明書まで作成してロンドンに連れこむことに成功する。
そして、白人二人のmusicianを用意してあのExperienceの誕生となる。

その時、Hendrixが交わした契約書の内容はひどいもので、それは全ての収入の30%、(通常のそれは15%)全てのレコード売り上げの3%、出版関係の50%が彼等の取り分になっていた。彼は税を避けるためバハマの銀行を迂回して利用し、2年後、Chandlerの権利を買い取り、全収入の40%を手に入れることになる。
彼の死後、法廷で争うことになるのだが、それに加え複雑にしたのはRBバックバンド時代、Hendrixはある会社と契約を結んでいた、たった1$の。当時、彼がレコードを出すなんて考えられなかったからだ。

この狡猾な曲者Jefferiesの指南に従い、Hendrixは英で人気を得、それが世界の若者に飛び火し、ロック界のギター寵児となっていく。
彼のギャラはウナギ登り状態でウッドストック時には$18.000(2015年換算で$112.000)、出演者の中で一番の高額取りになっていた。
現在、ギャラ百万$とも言われているJustin Timberlakeと比べたらたいしたことではないのだろうが、、、とてつもない巨大な産業に成長したものだ。
ちなみにSantanaのウッドストックでのそれは750$だった。

66年、ロンドンに着くや、曲者は売り込みに奔走する。
最初Hendrixを目にしたJimmy Page、Jeff Beck等、白人ギタリスト達は屈辱を感じた、彼が黒人だったからだ。
それがあることを契機に称賛へと変わる。
Claptonも含め、彼等・白人ギタリスト達は黒人音楽・bluesを弾き、そのriffをぱくり、それを土台にRockを熟成して世界的な人気を得るまでになった。
Hendrixはbluesを弾いているのに彼等の周りに黒人が皆無で、しかも、自分の同胞との接触が彼等にないことに愕然とする。

前章でClaptonはHendrixを友達だと思っていた、と書いた。
彼の本心だろう、、しかし、最初は違っていたはずだ。
当時65,66年John Mayall・.blues breakers時代のメンバーだった頃、
「Clapton is God」の落書きが地下鉄に溢れ、巷に拡散した。
Yardbirds時代のマネージャのもとで働いていた囃子役(Hamish Grimes)が仕組んだやらせだ、とClapton自身述べている。

Claptonは当時、ギターでは誰も敵わない神だった。
黒人のHendrixがロンドンで受け入れられるには仕掛けが必要だった。曲者の発案か、それとも彼自身のそれかは定かではないが、後者だと思うが。
The Creamのコンサートで、神にステージに上がっていいかと聞く。聴衆は驚いた、神に挑むguitaristがいるなんてありえないことだと。
Ericは同意して、そこでblues・killing fourを二人は演奏する。
しかし、Claptonはそのテンポの速さに付いていけなかった。
途中でやめてしまう。神は辱められた、Hendrixに。
これを契機に、英白人guitarist達はHendrixを称賛して受け入れた。

曲者は金のなる木・Hendrixを契約でがんじがらめにし、機材・drugを含め、彼の要求を全て受け入れ、金を無分別に与え、guitaristは浪費し続けた、勿論、このマネージャーも。
しかし、そんな状態が長く続くはずがない。
LSDを連想させるサイケデリックな衣装、それに”Purprle Haze”に代表されるdrug臭むんむんの曲、bigになるための戦略だったが、68年末からHendrixはそれらに嫌気がさしてくる。音楽に真摯に取り組んでいる自分を理解せず、drugでハイな稀有な才能を持ったセクシーな黒人、と色眼鏡で見られていることに。
しかし、これはHendrix自身、この曲者Jefferiesとの共同作業の結果だ、
ロンドンに奴隷のごとく(否、半自発的に)買われ、ウッドストックまでの約3年、白人社会にどっぷりと染まって生きてきた。
数えきれないほどのガールフレンド、取り巻き、聴衆、すべて白人、当時、白人女性と付き合うだけで黒人は殺されてもおかしくない時代なのに。
思うに、誰もがHendrixを黒人だとは思っていなかった、たまたま黒い肌を持った天才、、、と。
彼自身は強烈なほど“自分は黒人だ”というidentityを持っていたのに。
そして、同胞・黒人は 白人に従順なuncle Tomと彼を嫌っていた。

      
1969・2月、英最後のExperience・The Royal Albert Hallコンサート。
バンドは既に崩壊していましたが、
Ⅰ時間17分 フルコンサート、
彼等のbestな演奏をどうぞ。
当時からこの映像、法的問題があり、表に出せなかったものです。
いつ削除されるかわかりません、、 (追)終盤のjamにDave Masonが加わっています

https://forgottenguitar.com/2016/02/26/rare-footage-of-jimi-hendrixs-full-performance-at-the-royal-albert-hall-in-1969-video/
  
            続

Comment

Leave a Reply










Trackback