2: the other side of Shakespeare

西暦1600年、英国の総人口は約480万人、平均寿命約40年(16歳までに約60%の子供が亡くなり、30まで生き長らえた人の平均寿命が60年)そんな時代にウィリアム・シェクスピアは8人兄弟の第三子にして長男として、ロンドンから132キロ、ストラトフォードで生を受けた。

父ジョンは農家の出ではあったが、皮手袋業、金融業で成功し、町長に選ばれたこともある人物、母メアリーは地方の豪族の名家の出で貴族との交流もあった。
シェクスピアの学歴は、1578年、14歳のグラマースクール(中等学校教育)で突如終わってしまう。父親が羊毛の闇市場に関わった咎で起訴され、その後の一家の経済状態の悪化の為であった。
それから1582年、18歳で26歳の女性アンと結婚するまでの4年間、一切の記録がなく、“第一の失われた年”(the First Lost Years)と呼ばれている。

結婚5ヶ月後に第一子が生まれた、俗にいう“できちゃった婚”だった。
シェクスピアが生存時の英国の女王はプロテスタント(現在の英国教会)のエリザベス一世(1558-1603))、その前のメアリー1世(1553-1558)は300人の女性や子供を処刑したカトリックの信奉者。当時、極限まで増幅し、憎悪の対象になっていたカトリック信者である両家が、世間体を考慮して結婚を急いだものと推測されている。

1585から1592年の間、1589年に故郷ストラトフォードで隣人との土地トラブルの裁判記録が残っている以外、ロンドンの劇壇に名を現わすまで、どこで何をしていたのか、なぜロンドンへ移ったのかなど一切不明となっている。
この7年間は「第二の失われた年月」 (The Second Lost Years) と呼ばれている。 この間の事情については、「鹿泥棒をして故郷を追われた」「田舎の教師をしていた」「ロンドンの劇場主の所有する馬の世話をしていた」など、いくつかの伝説が残っているのみで、これらは死後に広まった噂である。
資格がないため進学できず演劇の道を選んだのは、その徒弟制度が、他のギルドの職種のそれに比べて緩やかだった為ではないかと推測されている。

英国民はフランス、スペイン、両カトリック国からの絶え間ない脅しに敵意を抱いていた。1587年、復権を画策していた前王女メアリーの処刑に激怒して、スペインのフェリペ2世は翌年、無敵艦隊で英国に侵攻したがアルマダの海戦で敗けてしまう。それを契機に英国のカトリック教徒はマイノリティとなっていった。

1592年までには父親は借金に追われて町の職をすべて失っていた。宗派の違いから成功したウィリアムの父をよく思わない同僚達の妬み、も一因だったと残されている。当時は政府のスパイが暗躍し、カトリック教徒を監視していたようだ。敵対し合う二つの世界に遭遇したシェクスピアの宗教観は不明で、隠れカトリックもしくは無神論者であった可能性もあると推測されている。
ロンドン在住25年間で8度の住所変更、その地区の教会への参列、礼拝、及びその際の署名が、強制、義務であったにも関わらず、彼の名前は一切、残されていない。彼の作品だけでなく実生活においても、宗教観を意図的に隠そうとしていた、と推測されている。

2014.03.21 


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