野良犬リキ・短編

野良犬リキ
僕達は同じ所で生まれた。そこは長崎県の佐世保市から船で約一時間半ほどの炭坑の島だ。
最盛期には人口、約三万、戦後、黒いダイヤともてはやされた頃に戦地から引き揚げてきた人々が、夢と職を求めてまさか30数年で廃山になろうとは思わずここに住み着いた。
八歳の夏、彼とよく遊んだ。
今、思うと不思議だ、その夏の四ヶ月間だけ僕達は友達だった。
名前は孝、近所のおばさん達の敵だった。干している洗濯物で手を拭いたからだ。
僕もなぜそんなひどいことができるのか理解できなかった。
白地の大きなシーツが特に好きで、そのときは拭き方が違った。
両手を拡げてシーツの真ん中に置いて、掴んで、右に、左に、上に、下に時間をかけてひねっている。
何かを描いているように見えた。描き終えて、風に揺られてはためいるのを眺めて恍惚としている。
何が見えているのだろう、洗濯した白いシーツにひどいことをするものだ、ぐらいに思っていた。
シーツが強風に煽られてパタパタと踊り狂った、孝が描いたへんてこなものが躍動した。すごかった、孝の旗だ、滅茶苦茶に飛び跳ねて踊っている。
彼の行為がほんの少し理解できた。おばさんの雷声が落ちるまで僕も見とれていた。
こっぴどく叱られ、何度もお袋に連れられて謝りに行ったのを覚えている、僕は眺めていただけなのに。
彼にはリキという一歳と少しの雑種の犬がいた。
“今からおもしろい遊びをやるから”と呼びに来た。
二メートルほどの釣り竿を右手に持っている。
孝が猫を見つけるや走り出した。僕もリキも何が始まるのか分からない、後を追った。
リキを猫にけしかけた、塀の上に逃げると釣り竿で猫をたたき落とした。
彼は嫌々ながら主人の命令に従っている。
“こんな遊びおもしろくないよ”
“リキを猟犬にしたいから止めない”と言った。
僕はそれから一週間ほど彼から遠ざかっていた。
偶然、彼らを見かけた、それはエスカレートしていた。
孝は釣竿の先に釘をくくりつけて歩いていた、リキが猫の爪にかなわないので助けるつもりだ。
あのとき、毅然とした態度で彼を止めていればあの事故は起きなかった。
僕は少し離れて見ていた。
訓練が始まった。
リキは猫を追いかけている、精彩がない、嫌々だ。
目は伏し目がちに“こんなひどいこともう止めよう”と孝に哀願している。
リキが怖じ気づいたと見てひどく叱った。
一匹の猫を追いつめた。孝が猫を塀から地面に落とそうと釣竿を突き立てた。先端の釘が猫の左手に刺さった。
悲鳴をあげて宙を跳び、鋭く爪を立てて、孝、目がけて飛んできた。
孝の叫び声と同時に血が地面を走った。
右耳から頬にかけて、長さ五センチ以上の傷となって残った。
皮膚は深くえぐられ、切断された神経の一部が顔の表情を大きく変えた。
それ以降、彼は家に閉じこもるようになり、学校にも来なくなった。
年が明けて、早朝、蒲団に入っていると、おふくろが、
“今日、孝君の家、ここを出て神奈川に行くのよ”と何げなく言った。
彼は評判が悪かったので黙っていたのだ。
桟橋へ走った。
もう蛍の光が鳴っている。
船は出ようとしていた、かろうじて青、黄、白のテープが船の進行を妨げている。
やがて、それらも、一つ、一つ、力尽きて波間で溺れていた。
孝の姿を探した、見えない。
船と並走した、もう50メートル程離れてますます遠ざかっていく。
走るのを諦めたとき、孝がデッキに現われた。
しゃくりあげている、頭が上下に揺れ、両手で顔を覆っている。
「孝!」
僕に気づいた、、何かわめいた。
泣き声じゃあ聞き取れない。
「リが、、、、リキ、、、、リ、、、」
そこまでだった、聞こえたのも、見えたのも。
船は進路を右にとって、対岸越しにマストだけ覗かせながら消えていった。
リキはどうしただろう、連れて行くなんて、、無理だ。
半年後、僕は片道二時間かけて魚釣りに出かけた。
人気のない海岸を歩いていると20匹ほどの野犬の群れに出くわした。
よちよち歩きのころ尻をかまれて以来、犬がこわい。小犬でさえ僕の恐怖心を読んで威嚇する。好きなお祖母ちゃんに会いに行けなかった、途中、鎖に繋がれた大きな犬がいたからだ。こわくないのはリキだけだった。
こちらに向かってくる、20匹、足がすくんで動けなくなった。
釣竿を構えて小石を集めた。
黒い一匹が行く手をさえぎるかのように集団に振り向いて唸った。
小さな体で群れに向かっている。それは僕の必死な叫びのようだった。
それまで僕の方に向かって来ていた群れの方向が変わった、僕を遠巻きにして通り過ぎていった。
あの唸った犬が僕の方に尻尾を振りながら駆けて来る。
恐くなって身構えた、、茶だったのにどす黒く汚れたリキだった。
あの事故以来だ、孝を伏し目がちに見ていた頃のリキではなかった
「リキ!ありがとう、小さな体で助けてくれて!覚えていてありがとう!」
僕の顔を嘗めて離れようとしない。
僕が離そうとしなかったのかもしれない、抱き合ってかなりの時間が過ぎた。
子供心に、そのとき流れていた、時間も、空間も、何事にも束縛されず、僕とリキが望めば、思うままに創りだせるところにあるように思えた、そうなればいいと。
閉山で友達はいなくなった。誰もいない学校に行くのはいやだ。僕のまわりの炭鉱住宅は空き家だらけだ。
こわかった、みんないなくなるようで。
彼はそれをいとも簡単に断ち切った。
すがろうとしていた僕は取り残されてしまった。
一度も振り返らなかった、一目散に群れが去った方向に駆けていった。
前に向かって、前に進むしか道がないのを知っていた。
その後姿がとっても優雅で、とっても自由で、風にはためいていた、あの孝の旗と重なった。
リキだった、あの孝の、旗の真ん中で飛び跳ねていたのは。
それから半年後、僕も炭鉱の島を出た。
リキは強かった、僕より、孝より。
僕達は同じ所で生まれた。そこは長崎県の佐世保市から船で約一時間半ほどの炭坑の島だ。
最盛期には人口、約三万、戦後、黒いダイヤともてはやされた頃に戦地から引き揚げてきた人々が、夢と職を求めてまさか30数年で廃山になろうとは思わずここに住み着いた。
八歳の夏、彼とよく遊んだ。
今、思うと不思議だ、その夏の四ヶ月間だけ僕達は友達だった。
名前は孝、近所のおばさん達の敵だった。干している洗濯物で手を拭いたからだ。
僕もなぜそんなひどいことができるのか理解できなかった。
白地の大きなシーツが特に好きで、そのときは拭き方が違った。
両手を拡げてシーツの真ん中に置いて、掴んで、右に、左に、上に、下に時間をかけてひねっている。
何かを描いているように見えた。描き終えて、風に揺られてはためいるのを眺めて恍惚としている。
何が見えているのだろう、洗濯した白いシーツにひどいことをするものだ、ぐらいに思っていた。
シーツが強風に煽られてパタパタと踊り狂った、孝が描いたへんてこなものが躍動した。すごかった、孝の旗だ、滅茶苦茶に飛び跳ねて踊っている。
彼の行為がほんの少し理解できた。おばさんの雷声が落ちるまで僕も見とれていた。
こっぴどく叱られ、何度もお袋に連れられて謝りに行ったのを覚えている、僕は眺めていただけなのに。
彼にはリキという一歳と少しの雑種の犬がいた。
“今からおもしろい遊びをやるから”と呼びに来た。
二メートルほどの釣り竿を右手に持っている。
孝が猫を見つけるや走り出した。僕もリキも何が始まるのか分からない、後を追った。
リキを猫にけしかけた、塀の上に逃げると釣り竿で猫をたたき落とした。
彼は嫌々ながら主人の命令に従っている。
“こんな遊びおもしろくないよ”
“リキを猟犬にしたいから止めない”と言った。
僕はそれから一週間ほど彼から遠ざかっていた。
偶然、彼らを見かけた、それはエスカレートしていた。
孝は釣竿の先に釘をくくりつけて歩いていた、リキが猫の爪にかなわないので助けるつもりだ。
あのとき、毅然とした態度で彼を止めていればあの事故は起きなかった。
僕は少し離れて見ていた。
訓練が始まった。
リキは猫を追いかけている、精彩がない、嫌々だ。
目は伏し目がちに“こんなひどいこともう止めよう”と孝に哀願している。
リキが怖じ気づいたと見てひどく叱った。
一匹の猫を追いつめた。孝が猫を塀から地面に落とそうと釣竿を突き立てた。先端の釘が猫の左手に刺さった。
悲鳴をあげて宙を跳び、鋭く爪を立てて、孝、目がけて飛んできた。
孝の叫び声と同時に血が地面を走った。
右耳から頬にかけて、長さ五センチ以上の傷となって残った。
皮膚は深くえぐられ、切断された神経の一部が顔の表情を大きく変えた。
それ以降、彼は家に閉じこもるようになり、学校にも来なくなった。
年が明けて、早朝、蒲団に入っていると、おふくろが、
“今日、孝君の家、ここを出て神奈川に行くのよ”と何げなく言った。
彼は評判が悪かったので黙っていたのだ。
桟橋へ走った。
もう蛍の光が鳴っている。
船は出ようとしていた、かろうじて青、黄、白のテープが船の進行を妨げている。
やがて、それらも、一つ、一つ、力尽きて波間で溺れていた。
孝の姿を探した、見えない。
船と並走した、もう50メートル程離れてますます遠ざかっていく。
走るのを諦めたとき、孝がデッキに現われた。
しゃくりあげている、頭が上下に揺れ、両手で顔を覆っている。
「孝!」
僕に気づいた、、何かわめいた。
泣き声じゃあ聞き取れない。
「リが、、、、リキ、、、、リ、、、」
そこまでだった、聞こえたのも、見えたのも。
船は進路を右にとって、対岸越しにマストだけ覗かせながら消えていった。
リキはどうしただろう、連れて行くなんて、、無理だ。
半年後、僕は片道二時間かけて魚釣りに出かけた。
人気のない海岸を歩いていると20匹ほどの野犬の群れに出くわした。
よちよち歩きのころ尻をかまれて以来、犬がこわい。小犬でさえ僕の恐怖心を読んで威嚇する。好きなお祖母ちゃんに会いに行けなかった、途中、鎖に繋がれた大きな犬がいたからだ。こわくないのはリキだけだった。
こちらに向かってくる、20匹、足がすくんで動けなくなった。
釣竿を構えて小石を集めた。
黒い一匹が行く手をさえぎるかのように集団に振り向いて唸った。
小さな体で群れに向かっている。それは僕の必死な叫びのようだった。
それまで僕の方に向かって来ていた群れの方向が変わった、僕を遠巻きにして通り過ぎていった。
あの唸った犬が僕の方に尻尾を振りながら駆けて来る。
恐くなって身構えた、、茶だったのにどす黒く汚れたリキだった。
あの事故以来だ、孝を伏し目がちに見ていた頃のリキではなかった
「リキ!ありがとう、小さな体で助けてくれて!覚えていてありがとう!」
僕の顔を嘗めて離れようとしない。
僕が離そうとしなかったのかもしれない、抱き合ってかなりの時間が過ぎた。
子供心に、そのとき流れていた、時間も、空間も、何事にも束縛されず、僕とリキが望めば、思うままに創りだせるところにあるように思えた、そうなればいいと。
閉山で友達はいなくなった。誰もいない学校に行くのはいやだ。僕のまわりの炭鉱住宅は空き家だらけだ。
こわかった、みんないなくなるようで。
彼はそれをいとも簡単に断ち切った。
すがろうとしていた僕は取り残されてしまった。
一度も振り返らなかった、一目散に群れが去った方向に駆けていった。
前に向かって、前に進むしか道がないのを知っていた。
その後姿がとっても優雅で、とっても自由で、風にはためいていた、あの孝の旗と重なった。
リキだった、あの孝の、旗の真ん中で飛び跳ねていたのは。
それから半年後、僕も炭鉱の島を出た。
リキは強かった、僕より、孝より。
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